【第四話】聖域の問い

野々宮咲は、罪を犯すような気持ちで、姑の千代子に頭を下げた。 「お義母様、申し訳ありません。二時間ほど、子どもたちを見ていていただくことは、可能でしょうか…」 「まあ、珍しいこと。ええ、構いませんよ。家のことは気にせず、楽しんでいらっしゃい」 その非の打ちどころのない笑顔が、かえって咲の罪悪感を増幅させた。咲は「ありがとうございます」と深く頭を下げ、逃げるように家を出た。

約束の場所である高村凛子のマンションのエントランスで、神崎麗奈と合流すると、麗奈は咲の姿を見て、小さく目を見開いた。 「咲さん、素敵! そのワンピース、新しい?」 「う、うん。ちょっと、久しぶりに引っ張り出してきちゃった」 クローゼットの奥で眠っていた、独身時代に買ったワンピース。少し気恥ずかしかったが、今日の日のために、勇気を出して着てきたのだ。

期待と不安を胸に、三人は連れ立って、雨宮栞が住む三十七階の部屋の前に立った。 通されたリビングは、三人が想像していたものとは、全く違っていた。 壁一面が、床から天井までの本棚になっていた。磨き上げられた無垢材の床。窓際には、大きな観葉植物が静かに呼吸している。そして、部屋全体に、清らかで、心が落ち着くような香りが満ちていた。 そこは、誰かに見せるための部屋ではなく、ただ、この部屋の主である雨宮栞のためだけに存在する、聖域(サンクチュアリ)のようだった。

中央のローテーブルには、美しいガラスのポットに注がれたハーブティーと、栞が手作りしたという素朴なクッキーが並んでいた。 四人は、ソファに腰を下ろし、最初は少しぎこちなく、それぞれの「幸せ」を報告しあう、饒舌なゲームのような会話を始めた。麗奈は予約困難なフレンチの話を、凛子は美術館で過ごした知的な時間の話を、そして咲は、息子たちの成長という、母としての喜びの話をした。

一通り、それぞれの物語が語り尽くされ、ふっと会話が途切れた。栞は、静かにお茶を一口飲み、穏やかな口調で言った。 「さて、今日読んでいただくことにした本ですが。この主人公、皆さんはどう思われましたか?」 当たり障りのない感想が、いくつか交わされる。栞は、それを静かに聞いた後、ふっと微笑んだ。 「では、質問を変えましょうか」 栞は、本をテーブルの上に置いた。 「もし、皆さんが、今の生活の外に何か一つだけ、ご自分のためだけに手に入れられるとしたら…。それは、何ですか?」

しん、と部屋が静まり返った。 夫のためではない。子供のためでもない。ただ、自分のためだけに。 その言葉が、三人の胸に、ずしりと重くのしかかる。麗奈の頭を、華やかな言葉が駆け巡ったが、どれも、この部屋の空気の中では、虚しく響くことだろう。凛子の心に、知的な単語が浮かんだが、それが本当に渇望しているものなのか、自信がなかった。 そして、咲。彼女の頭の中は、真っ白になった。自分のための望み。その引き出しは、もう何年も開けたことがなかった。

長い、長い沈黙の果てに、か細い、ほとんど吐息のような声が、その静寂を破った。 「……眠りたい」 凛子と麗奈が、はっとして声の主を見た。野々宮咲だった。

咲は、顔を上げられないまま、言葉を続けた。その声は、微かに震えていた。 「立派なものが欲しいわけじゃ、ないんです。旅行に行きたいとか、そういうことでもなくて…。ただ…」 一度堰を切った言葉は、もう止まらなかった。それは、願いというよりも、魂の叫びだった。 「…一人で、眠りたいです。夜中に、子供の咳や、寝言で目を覚ますことなく。夫の寝返りを気にすることもなく。朝、階下のお義母様の気配で、飛び起きることもなく。鍵のかかる、真っ暗で、静かな部屋で、ただ、泥のように、眠りたい…。朝のアラームが鳴るまで、一度も起きずに、眠るということが、もう、何年も、思い出せないから…」

その、あまりに切実で、あまりに純粋な告白が、硬質なガラスのようだったこの部屋の空気を、粉々に打ち砕いた。麗奈は、一瞬、呼吸を忘れた。咲の告白に共感しかけている自分自身に、激しい嫌悪感が湧き上がっていた。凛子は、目の前で剥き出しにされた感情の扱いに戸惑い、どう反応すべきか、完璧な正解が見つけられずにいた。咲は、自分の失言を、死ぬほど後悔した。

完璧な仮面舞踏会は、終わってはいない。ただ、一人の踊り子の仮面がずり落ち、その下にある涙の痕跡が見えてしまっただけだ。他の二人は、その痛々しい素顔から目を逸らし、慌てて自分の仮面を強く押さえつけていた。 その重苦しい沈黙を破ったのは、この部屋の主、雨宮栞だった。彼女は、驚きも、同情も見せず、ただ、先ほどと全く変わらない穏やかな声で、言った。 「ええ。それは、とても大切で、美しい望みね」 その言葉は、誰にも届いていないようだった。麗奈は、手元の時計に目を落とし、作り物のように完璧な笑顔を浮かべた。 「あら、もうこんな時間! ごめんなさい、私、この後、娘のお迎えが…。栞さん、今日は本当に、ありがとうございました」 その言葉を皮切りに、読書会は終わりへと向かっていく。帰り道のエレベーターの無機質な下降音だけが、三人の間に横たわる、深く、気まずい溝の存在を、雄弁に物語っていた。

第五話「波紋と後退」へ続く

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