「もう、嘘はつけない……」
高村凛子は、ほとんど吐息のような声で、そう呟いた。 三十八階のリビングの窓は、床から天井まで一枚の巨大なガラスになっていて、眼下に広がる札幌の夜景を、完璧な額縁のように切り取っていた。無数の光の粒が、宝石のようにきらめいている。かつては、この手に入れた世界の輝きだと思っていた光が、今は、自分とは関係のない、遠い銀河の星々のように見えた。
部屋の真ん中には、夫の誠が、凍りついたような顔で立っている。彼が何かを言った。罵りだったか、懇願だったか、それすらも、もう、凛子の耳には届かない。
凛子の足元には、小さなボストンバッグが一つ、ぽつんと置かれている。中に入っているのは、数枚の下着と、一冊の古い文庫本、そして、少しばかりの現金だけ。彼女が、この家から持っていける、唯一の「自分」だった。
「出ていくというのか。この、何不自由ない生活を、すべて捨てて」 誠の声が、今度は、やけにクリアに聞こえた。 凛子は、ゆっくりと夫に視線を戻した。ガラスケースの向こう側にいる、美しい剥製を見るような、不思議なほど、穏やかな気持ちだった。
「ええ。出ていきます」 「どこへ行く当てもないくせに」 「え-え。どこへも」
その答えに、誠は、絶望とも怒りともつかない表情で、顔を歪めた。 凛子は、静かに、最後の言葉を紡いだ。 「私は、ただ、思い出したかっただけ。この景色を、きれいだ、と感じた頃の、自分の心を」
それが、この完璧な生活、正しい人生、十五年間の結婚生活に対する、凛子の、別れの言葉だった。 彼女は、もう夫の顔を見ることなく、小さなボストンバッグを手に取ると、磨き上げられた大理石の床を、一度も振り返らずに、歩き始めた。 玄関のドアを開けると、マンションの廊下の、人工的な光が、彼女の身体を白く照らし出す。
ドアが、重い音を立てて、閉まる。 後に残されたのは、完璧な夜景と、完璧な静寂。そして、その中で、一人立ち尽くす、男の姿だけだった。
すべてが、終わった。 あるいは、すべては、ここから、始まったのかもしれない。
一体、何が、彼女をそうさせたのか。 あの、完璧だったはずの日常に、いつから、どんな亀裂が、静かに、そして、深く、走り始めていたというのだろうか。 物語は、一年前の、ある穏やかな日曜日の朝へと、その時計の針を巻き戻す――。


コメント