短編小説「完璧な日常の亀裂」

短編小説「完璧な日常の亀裂」

【第五話】波紋と後退

あの読書会から三日。高村凛子の三十八階の部屋は、以前と何も変わらない、完璧な静寂に包まれていた。だが、その静寂の質は、以前とは明らかに違っていた。 凛子は、リビングのソファに座り、分厚い美術史の本を開いていた。しかし、一文字も頭に入...
短編小説「完璧な日常の亀裂」

【第四話】聖域の問い

野々宮咲は、罪を犯すような気持ちで、姑の千代子に頭を下げた。 「お義母様、申し訳ありません。二時間ほど、子どもたちを見ていていただくことは、可能でしょうか…」 「まあ、珍しいこと。ええ、構いませんよ。家のことは気にせず、楽しんでいらっしゃ...
短編小説「完璧な日常の亀裂」

【第三話】やさしい檻

野々宮咲の正しさは、もっと、具体的で、手触りのあるものだった。それは、息子たちの体操服についた泥の匂いや、夫が「うまい」と言って空にする、夕食の皿の数、姑の「いつもありがとう」という優しい声。彼女は、自分以外の家族の幸福度を最大化すること...
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【第二話】フレームの中の幸福

神崎麗奈もまた、自分の正しさを信じていた。彼女の正しさは、数字で証明される。一万二千というフォロワーの数。投稿から一時間でつく、五百を超える「いいね」。娘が着ているフランスの子供服の値段。夫が院長を務めるクリニックの、今期の増収率。数字は...
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【第一話:完璧な日曜日】

正しい、と高村凛子は思っていた。自分の生活は、どこからどう見ても、正しいのだ、と。 札幌の円山に建つタワーマンション。ゴルフへ行く夫を、アイロンのかかったポロシャツで送り出す。私立中学に通う息子が部屋にこもれば、その静けさを享受し、丁寧に...
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【序章】完璧な日常の亀裂

「もう、嘘はつけない……」 高村凛子は、ほとんど吐息のような声で、そう呟いた。 三十八階のリビングの窓は、床から天井まで一枚の巨大なガラスになっていて、眼下に広がる札幌の夜景を、完璧な額縁のように切り取っていた。無数の光の粒が、宝石...
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