【第一話:完璧な日曜日】

正しい、と高村凛子は思っていた。自分の生活は、どこからどう見ても、正しいのだ、と。 札幌の円山に建つタワーマンション。ゴルフへ行く夫を、アイロンのかかったポロシャツで送り出す。私立中学に通う息子が部屋にこもれば、その静けさを享受し、丁寧に淹れたコーヒーを飲む。テーブルの上の花は枯らさず、ハウスキーパーには的確な指示を出し、夫の資産運用について書かれた雑誌に目を通す。これらはすべて、かつて自分が捨てたキャリアと引き換えに手に入れた、正しい選択の結果であるはずだった。だから、時折、胸の奥に澱のように溜まる、理由のわからない息苦しさの正体からは、ずっと目を逸らし続けていた。

『ピンポーン』

軽やかな電子音が、休日の静寂に響いた。壁のモニターには、同じマンションの友人、神崎麗奈の顔が映っている。 「凛子さん、こんにちは! 例のスコーン、焼けたからお裾分けにきちゃった」 「まあ、嬉しい! すぐ開けるわね」

麗奈は、凛子とは違う種類の「完璧」を体現している友人だった。元モデルの彼女は、いつでも美しく、明るく、そしてSNSの世界で輝いている。彼女の存在は、この美しが丘での生活に、華やかな彩りを添えてくれていた。

リビングに通された麗奈は、焼きたてのスコーンが入った籠をテーブルに置きながら、感嘆の声を上げた。 「はぁ…、いつ来ても凛子さんのお宅は素敵。モデルルームみたい。私の家なんて、娘たちの小物でごちゃごちゃしちゃって」 「うふふ、麗奈さんのお宅は、温かい家庭の雰囲気がして好きよ。うちは男二人だから、殺風景なくらいよ」 お互いを褒め称え、謙遜しあう。それは、彼女たちの間で交わされる、心地よい挨拶のようなものだった。麗奈が早速スマートフォンでスコーンとテーブルの芍薬の写真を撮り始めると、凛子は微笑ましくそれを見守った。

「そういえば、下の階に越してきた方、ご挨拶された?」 麗奈がふと思い出したように言った。 「ううん、まだ。どんな方なの?」 「それが、ちょっとミステリアスな方なのよ。雨宮さんていうんだけど。この間の保護者会にも来てたんだけど、誰とも群れずに、すっと立っていらして。でも、すごく素敵なの」

噂話に花が咲く。それもまた、この穏やかな日常を構成する、楽しいスパイスの一つだった。

その日の午後、凛子が一人でマンション内のフィットネスジムで汗を流していると、その「雨宮さん」本人と鉢合わせになった。 黒いトレーニングウェアに身を包んだ彼女は、凛子が今まで見てきたこのマンションのどの住人とも違う、静かで知的な空気をまとっていた。

「こんにちは。三十八階の高村です」 凛子が会釈すると、彼女も丁寧にお辞儀を返した。 「まあ、上の階の方でしたのね。先日越してまいりました、雨宮栞と申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」 その声は、落ち着いていて、耳に心地よかった。当たり障りのない挨拶を交わし、別れる。ただそれだけのはずだった。

トレーニングを終え、シャワーを浴びてラウンジで寛いでいると、再び栞と顔を合わせた。彼女は窓際の席で、文庫本を読んでいた。凛子が隣の席に座ると、栞は本から顔を上げ、静かに微笑んだ。

「高村さんは、いつもこちらを?」 「ええ、まあ、平日の昼間は空いていますし…」 「素敵な空間ですよね。まるで、街の喧騒から切り離されたサンクチュアリ(聖域)みたい」 サンクチュアリ。その言葉の響きに、凛子は少しだけ胸を突かれた気がした。

「雨宮さんは、読書がお好きなんですか」 「ええ。本は、ここではないどこかへ連れて行ってくれる翼ですから」 翼。その言葉もまた、凛子の心に小さなさざ波を立てた。 「昔は、私もよく読んだのですけれど…。結婚してからは、すっかり」 「そう。どんな本を?」 「…もう、忘れてしまいました」 凛子は、少し寂しそうに笑った。本当に、忘れてしまったのだ。かつて自分がどんな物語に胸をときめかせ、どんな言葉に心を震わせたのか。

栞は、優しい目をしたまま、言った。 「もしよろしければ、来週、私の部屋で小さな読書会を開くのですけれど、いらっしゃいませんか。昔の翼を、もう一度広げてみるのも、悪くないかもしれませんよ」

それは、あまりに唐突で、しかし不思議と不快ではない誘いだった。 「読書会、ですか…」 「ええ。堅苦しいものではありませんわ。美味しいお茶を飲みながら、ただおしゃべりするだけ。お友達も、ご一緒にいかが?」

栞の浮かべた微笑みは、このマンションの住人たちが浮かべる、社交辞令のそれとは全く違って見えた。 凛子は、なぜか断ることができなかった。

その夜。いつものように静かな食卓を囲み、誠がゴルフの結果を上機嫌で話すのを聞きながら、凛子は昼間の栞の言葉を思い出していた。 翼。サンクチュアリ。 今の生活に、何一つ不満はない。この上なく幸せなはずだ。 それなのに、どうしてだろう。その言葉が、まるで古いアルバムの埃を払うように、心の奥の何かをくすぐる。 凛子は、麗奈と、もう一人の友人である咲に、メッセージを送った。

『素敵な方に、読書会に誘われたの。もしよかったら、一緒にどう?』

それは、完璧な日常に投じられた、ほんの小さな石ころ。 その石が、これからどれほどの波紋を広げることになるのか、凛子はまだ知る由もなかった。

第二話「フレームの中の幸福」へ続く

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