【第二話】フレームの中の幸福

神崎麗奈もまた、自分の正しさを信じていた。彼女の正しさは、数字で証明される。一万二千というフォロワーの数。投稿から一時間でつく、五百を超える「いいね」。娘が着ているフランスの子供服の値段。夫が院長を務めるクリニックの、今期の増収率。数字は嘘をつかない。数字は、彼女の人生が、他の誰の人生よりも、より正しく、より価値があることの、明確な証拠だった。だから、スマートフォンの画面が消えた瞬間に襲ってくる、自分が空っぽの容器になってしまったかのような途方もない不安からは、いつも、巧みに逃げていた。

「ママ、見て! リボン、上手に結べたでしょ?」 下の娘の愛華が、自分で結んだという少し歪んだ髪のリボンを誇らしげに見せに来た。 「まあ、すごいわ愛華! とっても上手よ!」 麗奈は満面の笑みで娘を抱きしめ、その頭を優しく撫でた。そして、完璧な角度から、その姿を写真に収める。

『今朝の娘コーデ♡ 自分でリボンを結べるようになりました。子どもの成長は本当に早いですね。一日一日を大切にしないと。#娘コーデ #キッズファッション #成長記録 #女の子ママ』

投稿ボタンを押すと、すぐに赤い通知が咲き乱れる。『可愛い!』『うちの子も同じリボン持ってます!』『麗奈さんみたいなお母さん、憧れます』。その一つ一つが、彼女の幸福を証明するトロフィーだった。麗奈は寄せられるコメントに丁寧に返信をしながら、満ち足りた気持ちでハーブティーを一口飲んだ。

夫の洋平は、札幌でも有数の美容クリニックの院長で、多忙な彼を支え、二人の娘を完璧に育て上げ、そして何より、自分自身がいつまでも美しくあること。それが、麗奈のプライドであり、生きがいだった。もちろん、大変なこともある。娘たちの習い事の送迎は分刻みのスケジュールだし、洋平が主催する会食では、彼の取引先や恩師に失礼がないよう、常に神経を張り巡らせていなければならない。

でも、それらはすべて、この幸福な生活を維持するための、心地よい努力だと思えた。インスタグラムで「いいね」が増えるたびに、麗奈は自分の人生が間違っていないことを確認できた。

夜、クリニックの経営会議で少し疲れた顔をして帰ってきた洋平に、麗奈は笑顔で駆け寄った。 「あなた、お疲れ様。すぐにお食事の用意するわね」 「ああ、ありがとう」 洋平はぶっきらぼうに答えながらも、麗奈が甲斐甲斐しく世話を焼くのを、満足そうに受け入れている。その視線が、麗奈にとっては愛情の証だった。彼は口数が多い方ではないが、毎年結婚記念日には、麗奈が欲しがっていたブランドバッグを黙ってプレゼントしてくれる。言葉よりも、行動で示す人なのだ。麗奈はそう理解していた。

そんな時、スマートフォンが震えた。高村凛子からの、読書会への誘いだった。 『素敵な方に、読書会に誘われたの。もしよかったら、一緒にどう?』

読書会。その知的な響きに、麗奈の心はときめいた。主催は、あの雨宮栞さん。麗奈もその存在は知っていた。自分とは違う、凛とした美しさを持つ人。彼女が主催する会ならば、きっと参加者も素敵な人たちに違いない。新しい人脈、新しい世界。それは、麗奈の「完璧な日常」を、さらにワンランク上へと引き上げてくれる、素晴らしい機会に思えた。

『素敵! ぜひ参加させてほしいわ。どんな本を読むのかしら?』

すぐに返信を打つ。当日はどんな服を着ていこうか。読書会というテーマに合わせて、少しクラシカルなワンピースがいいかもしれない。その様子をインスタグラムに投稿すれば、フォロワーたちもきっと喜んでくれるだろう。『今日は素敵な読書会へ…』。そんなキャプションを考えながら、麗奈は久しぶりに胸が高鳴るのを感じていた。

これが、幸せでなくて、何だろう? 夫は成功し、可愛くて賢い娘たちがいて、美しが丘の友人たちにも恵まれている。そして、SNSの世界では、一万人以上の人々が、自分のライフスタイルに憧れの視線を送ってくれている。

麗奈は、ドレッサーの前に座り、鏡の中の自分に微笑みかけた。そこには、誰もが羨む「神崎麗奈」が、完璧な笑顔を浮かべていた。彼女は、その笑顔の裏に、ほんの小さな染みのように広がる、正体不明の物足りなさがあることには、まだ気づいていなかった。あるいは、無意識のうちに、気づかないふりをしていた。

第三話「やさしい檻」へ続く

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