【第三話】やさしい檻

野々宮咲の正しさは、もっと、具体的で、手触りのあるものだった。それは、息子たちの体操服についた泥の匂いや、夫が「うまい」と言って空にする、夕食の皿の数、姑の「いつもありがとう」という優しい声。彼女は、自分以外の家族の幸福度を最大化することに、自分の存在価値のすべてを賭けていた。それが、この家に嫁いだ女の、最も正しい生き方だと教えられてきたし、自分もそう信じていた。だから、三人の息子を寝かしつけた後、真っ暗なリビングで一人、膝を抱えていると、自分が今、どんな顔をしているのか、全く分からなくなることには、気づかないふりをしていた。

「ママ、起きて!」「お腹すいたー!」「僕の恐竜どこー!」

咲は、その混沌のシンフォニーの中心で、静かに目を開ける。隣で眠る夫・智也の穏やかな寝息は、この嵐が自分には関係のないことだと告げているようだった。咲は微笑みながら、そっとベッドを抜け出した。これが、自分の戦場であり、守るべき愛おしい城なのだ。

朝食の時間は、戦争だ。牛乳をこぼす三男、パンの耳を残す次男、学校のプリントを突き出す長男。咲は、まるでオーケストラの指揮者のように、そのすべてを捌いていく。自分の朝食は、キッチンカウンターの隅で、立ったまま五分でかきこむ。

夫の智也は、地元の建設会社を継ぐ三代目で、優しく、子どもたちのこともよく可愛がってくれる。 「ママ、ありがとう。今日も助かるよ」 出勤前、智也は咲の肩をぽんと叩いて言った。その「ママ」という呼び名に、咲はもう何の違和感も抱かない。三人の息子の母親なのだから、当然だ。智也からの感謝の言葉と、子どもたちの「いってきます!」の声が、咲の勲章だった。

姑の千代子とのティータイムは、嫁としての大切な勤めの一つだ。 「この間の運動会、あの子たち、本当に頑張っていたわね。智也も喜んでいたわ」 「ありがとうございます。お義母様に応援していただけたからですよ」 「うふふ。でも、少し気になったの。長男の体操服、少しだけ裾がほつれていたでしょう? 野々宮家の長孫なのだから、身だしなみは、いつも完璧にして差し上げないと」

その言葉は、羽のように軽く、しかし鉛のように重く、咲の心に落ちた。昨日、夜なべをしてゼッケンを縫い付けた後、確認したはずなのに。 「…申し訳ありません。気づきませんでした。すぐに直します」 「いいのよ、責めているわけではないの。あなたは、本当によくやってくれているわ。ただ、この家は、いつ誰が見ても、恥ずかしいことのないようにしておきたいだけ」 千代子は、悪気なく微笑んでいる。その笑顔の前では、どんな言い訳も、ただの甘えにしか聞こえないだろう。咲は、黙って頭を下げた。

午後になり、息子たちが帰ってくるまでのわずかな時間。ソファに深く身を沈め、咲はようやく息をついた。体の隅々まで、鉛を詰め込まれたような疲労感が広がっている。これが、母親であることの証なのだ。この心地よい疲労と引き換えに、自分は家族の笑顔という、何物にも代えがたい宝物を手に入れている。

ぼんやりとスマートフォンを手に取ると、凛子からメッセージが届いていた。 『素敵な方に、読書会に誘われたの。もしよかったら、一緒にどう?』

読書会。その三文字を、咲は頭の中でゆっくりと反芻した。本なんて、もう何年も開いていない。 咲の視界の端に、リビングの隅に追いやられた、自分の小さな机が映った。大学時代に使っていたその机の上には、今は子どもたちの学校のプリントや、町内会の回覧板が山積みになっている。その奥に、卒業論文のために読み込んだ小説たちが、背表紙の色を褪せさせて、静かに眠っているのを、咲は知っていた。

(私が行けるわけないじゃない…)

咲は、自嘲気味に微笑んだ。 『素敵なお誘い、ありがとう! でも、私は遠慮しておくわ。子どもたちから目が離せなくて。またランチでもご一緒させてね』 指が、ほとんど自動的に、完璧な断りの文章を打ち込んでいく。それが「野々宮家の嫁」として、そして「三人の息子の母」として、最も正しい返事だった。 送信ボタンを押そうとした、その時。ふと、栞という名前が、記憶の片隅で光った。 (どんな本を、読むのかしら…)

ほんの出来心だった。 咲は、返信の文章を消し、代わりに短い質問を打ち込んだ。 『ありがとう。ちなみに、どんな本を読む会なの?』

すぐに凛子から返信が来た。そこには、一冊の小説のタイトルが記されていた。それは、咲が大学時代に、心を震わせながら読んだ、ある女性作家のデビュー作だった。 そのタイトルを目にした瞬間、咲の耳から、洗濯機の音も、遠くで聞こえるサイレンの音も、すべてが消えていた。 代わりに聞こえてきたのは、ずっと昔に忘れてしまったはずの、自分の心の奥底で鳴り響く、静かで、しかし確かな鼓動の音だった。

第四話「聖域の問い」へ続く

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