『Re:bloom』第2章|SNSの虚像とフォロワー数に縛られた孤独|神崎麗奈の場合

短編小説【完璧な妻が壊れた夜に】
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第2章「数字という鎧」

神崎麗奈の一日は、スマートフォンの画面から始まる。午前六時、アラームが鳴る。最初に手を伸ばすのは、隣で眠る夫の体温ではなく、ナイトテーブルの上のiPhoneだ。画面をスワイプする。通知が並ぶ。『Reina_Lifeさんの投稿に、いいねが152件つきました』『新しいフォロワーが3人増えました』『コメントが38件あります』麗奈の唇が、条件反射のように緩む。今朝も、私は「必要とされている」。この数字が、麗奈の一日の始まりを決定づける。数字が多ければ、良い一日。少なければ、不安な一日。

ベッドから抜け出し、洗面所で顔を洗う前に、麗奈はまず、昨夜投稿した写真の反応をチェックする。それは、娘たちが作ったクッキーと、北欧製のティーカップが並ぶテーブルの写真だった。実は、このクッキー、半分は麗奈が焼き直したものだ。娘たちが作ったままでは、形が不揃いで、「映えない」から。『素敵すぎます!』『麗奈さんみたいなママになりたい』『器も可愛い。どこのブランドですか?』一つ一つのコメントに、麗奈は丁寧に返信する。それが、朝の儀式だった。この儀式を終えないと、一日が始まらない。

「ママー、制服どこー?」階下から、小学六年生の長女・美咲の声が響く。「今行くわ!」麗奈は慌ててスマホを置き、階段を駆け下りた。リビングでは、次女の愛華が朝食のパンをこぼし、テーブルが汚れている。「もう、愛華ったら! ちゃんと食べなさい」麗奈は、テーブルを拭きながら、ふと思った。このシーンを撮影したら、フォロワーたちは何と言うだろうか。きっと、「リアルな日常、素敵です」とコメントするだろう。でも、本当の「リアル」は、もっと汚くて、疲れていて、イライラしているのだ。でも、そんな「リアル」は、誰も見たくない。みんなが見たいのは、美しく編集された、都合の良い「リアル」だけ。

朝食を終え、娘たちを学校に送り出すと、麗奈は再びスマホを手に取った。タイムラインには、他のママインフルエンサーたちの投稿が並んでいる。手作りの豪華な弁当、整理整頓された子供部屋、家族旅行の写真。麗奈の心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。彼女たちのフォロワー数を見る。1万5千、2万、中には5万人を超える者もいる。私は1万2千。まだ足りない。もっと、もっと上を目指さなければ。麗奈は、その日の投稿を考え始めた。何を撮れば、「いいね」が増えるだろうか。どんなキャプションを書けば、フォロワーが増えるだろうか。考えているうちに、気づけば一時間が経っていた。

午後、麗奈は美容クリニックに向かった。夫・洋平が院長を務めるクリニックだ。受付で、スタッフたちが麗奈を見て微笑む。「奥様、今日もお美しいですね」「いつもインスタ、拝見しています」麗奈は完璧な笑顔を返した。ここでは、私は「カリスマ主婦」であり、「院長夫人」だ。その期待に、応え続けなければならない。洋平の執務室に入ると、夫はパソコンの画面を見たまま言った。「ああ、麗奈か。今日の売上、また上がったぞ」「それは良かったわね」「お前のインスタ効果もあるな。『院長夫人も通うクリニック』っていうブランディングが効いてる」

麗奈は、微笑みを保ったまま、心の中で小さく息を吐いた。夫にとって、私は「ブランディングの道具」なのだ。愛する妻ではなく、クリニックの看板。「そういえば」洋平が、ようやく麗奈の顔を見た。「今度、学会があるんだ。お前も同伴で頼む。いつもの、完璧な格好で」いつもの、完璧な格好。その言葉が、麗奈の胸に突き刺さった。私は、夫にとって、アクセサリーなのだ。美しく、華やかで、夫の地位を引き立てるための。

夜。娘たちを寝かしつけた後、麗奈は一人、ベッドの中でスマホを見つめていた。今日の投稿は、300の「いいね」を集めていた。コメント欄は、称賛の言葉で埋め尽くされている。でも、画面を閉じた瞬間、部屋は、静寂に包まれた。隣で眠る夫の寝息。規則正しく、機械的な音。麗奈は、自分の手のひらを見つめた。この手で、今日、誰かと「触れ合った」だろうか。娘を抱きしめただろうか。夫の手を握っただろうか。思い出せなかった。

麗奈は、そっとスマホを抱きしめた。この小さな画面の中だけが、私を必要としてくれる。この数字だけが、私の価値を証明してくれる。だから、手放せない。たとえ、この鎧が重くて、息苦しくても。麗奈は、画面の光に照らされた自分の顔を見た。そこには、疲れ切った、三十七歳の女性がいた。いつから、こんな顔になったのだろう。かつて、モデルとして雑誌の表紙を飾っていた頃の自分は、もっと輝いていたはずだ。でも今は、その輝きは、すべてフィルターの向こう側にしか存在しない。


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