ある日、栞のサロンで、凛子は一人の男性と出会った。彼の名は、朝倉海斗。四十代半ば、ソムリエとして、札幌市内の高級レストランで働いているという。栞の知人で、時折、サロンにワインを届けに来るのだという。「初めまして、高村さん。栞さんから、お話は伺っています」朝倉は、穏やかに微笑んだ。凛子は、彼の目を見て、少しだけ動揺した。夫・誠とは違う、静かで、どこか遠くを見ているような、深い瞳。
「こちらこそ。いつも、素敵なワインをありがとうございます」当たり障りのない挨拶を交わす。だが、凛子の心臓は、少しだけ速く打っていた。朝倉は、ワインボトルをテーブルに置きながら、言った。「このワインはね、長い間、暗い地下室で眠っていたんです。でも、栓を開けて、空気に触れさせてあげないと、この子は本当の香りを放てない」その言葉が、凛子の胸に、何かを呼び起こした。(私も、そうなのかもしれない)暗い檻の中で、長い間、眠っていた。でも、誰かが栓を開けてくれたら、私も、本当の香りを放てるのだろうか。
朝倉は、凛子の表情の変化に気づいたのか、静かに微笑んだ。「もしよろしければ、今度、私の働いているレストランに、いらっしゃいませんか。美味しいワインと、美味しい料理で、お待ちしています」それは、ただの社交辞令だったのかもしれない。だが、凛子は、その言葉を、まるで救いの手のように感じた。その夜、凛子は、夫との夕食の時に、ふと言った。「ねえ、あなた。今度の週末、友人と食事に行ってもいいかしら」誠は、スマートフォンから目を上げることなく答えた。「ああ、構わんよ。好きにしろ」
その、あまりにも無関心な返事が、凛子の心を、少しだけ傷つけた。同時に、背中を押された気もした。(いいのよね。好きにしても)週末、凛子は、朝倉が働くレストランを訪れた。すすきのの路地裏にある、看板のない小さなビストロ。知る人ぞ知る、隠れ家のような店だった。朝倉は、凛子を窓際の席に案内した。「今日は、特別なワインをご用意しました」彼は、丁寧にワインを注ぎながら、その産地や歴史を語った。凛子は、その声に、耳を傾けた。
夫・誠は、凛子と食事をしても、スマートフォンを見ているか、仕事の話をするだけだった。だが、朝倉は違った。彼は、凛子の目を見て、話しかけてくれた。「高村さんは、ワインはお好きですか?」「ええ、嗜む程度ですけれど」「そうですか。ワインは、人生に似ていると思うんです」朝倉は、グラスを傾けながら言った。「若い頃は、酸味が強くて、刺激的。でも、時間をかけて熟成すると、深みが出て、複雑な味わいになる。人生も、そうじゃないですか」
その言葉が、凛子の心に、静かに響いた。「……私の人生は、熟成しているのでしょうか」凛子は、思わず、本音を漏らした。朝倉は、凛子を真っ直ぐに見つめた。「それは、高村さん自身が、一番よくご存知なのでは?」その視線が、凛子の心を、じわりと溶かしていく。危ない。この人は、危ない。凛子は、心の中で警告を発した。だが、同時に、この温もりから離れたくない、とも思った。
食事が終わり、凛子が店を出ようとすると、朝倉が声をかけた。「高村さん。もしよろしければ、また、いらしてください。……一人で抱え込まないでくださいね」その言葉は、栞と同じだった。だが、朝倉の口から聞くと、それは、全く違う意味を持って聞こえた。凛子は、ただ、小さく頷いて、店を後にした。タクシーの中で、凛子は、自分の頬が熱いことに気づいた。(いけない)頭では分かっている。これは、危険な道だ。だが、心は、もう一度、あの温もりを求めていた。
それから、凛子は、朝倉のレストランに、通うようになった。週に一度。夫が出張の日を選んで。朝倉は、いつも、凛子を温かく迎えてくれた。そして、美味しいワインと、心地よい会話を提供してくれた。凛子は、その時間が、唯一の「息ができる場所」になっていた。だが、ある日、凛子は気づいた。朝倉の左手の薬指に、指輪があることに。「……朝倉さん、既婚者だったんですね」凛子が尋ねると、朝倉は、少しだけ表情を曇らせた。「ええ。でも、もう、形だけです。妻とは、何年も会話らしい会話をしていません」
その言葉が、凛子の胸に、複雑な感情を呼び起こした。(私と、同じ)凛子は、朝倉に、シンパシーを感じた。そして、その夜、凛子は、一線を越えようとしていた。危険だと分かっていた。でも、止められなかった。この温もりが、あまりにも心地よくて。

