第13章「咲の新しい翼」

この記事は約4分で読めます。

野々宮咲は、あの栞のサロンから帰った後、一つの決意をしていた。「関係」を変えるためには、自分自身が変わらなければならない。そして、そのためには、「野々宮咲」という個人を、もう一度、取り戻さなければならない。咲は、納戸の奥にしまい込んでいた、大学時代の段ボールを引っ張り出した。そこには、フランス文学の教科書、辞書、そして卒業論文のノートが眠っていた。埃をかぶったそれらを手に取ると、二十歳の頃の自分が、蘇ってくるようだった。

咲は、栞のサロンで、ふと耳にした言葉を思い出していた。「咲さんは、フランス文学がお好きだったんですよね。それ、今でも活かせるかもしれませんよ」栞のその何気ない一言が、咲の心に、小さな種を植えた。翻訳。大学時代、サガンやデュラスを原書で読んでいた自分。その知識は、今も、自分の中に眠っている。でも、どうやって?咲は、パソコンで「フランス語 翻訳 在宅ワーク」と検索した。

画面には、クラウドソーシングサイトの情報が並んでいた。クラウドワークス、ランサーズ。主婦でも、在宅で、翻訳の仕事ができる。咲の心臓が、早く打ち始めた。でも、私にできるだろうか。ブランクは十年以上ある。それに、専門的な翻訳なんて、やったことがない。不安が、押し寄せてくる。だが、咲は、栞の言葉を思い出した。「一人で抱え込まないで」咲は、グループメッセージを開き、凛子と麗奈に相談を打ち明けた。

『実は、私、フランス語の翻訳の仕事を始めてみようかと思っているんです。でも、不安で……』すぐに、凛子から返信が来た。『素敵! 咲さんの知識を活かせるなんて、最高じゃない。何か手伝えることがあったら言ってね』麗奈からも。『応援してる! 咲さんなら絶対できるよ』その言葉が、咲の背中を押した。咲は、クラウドワークスにアカウントを作成した。プロフィールには、『フランス文学専攻、大学で4年間学びました』と書いた。少し盛っているかもしれない。でも、嘘ではない。

翌日、咲のもとに、初めての依頼が来た。フランスの料理レシピの翻訳。報酬は、3000円。少ない。だが、咲にとっては、初めて「自分の力で稼いだお金」になるはずだった。咲は、辞書を片手に、必死に翻訳した。大学時代の知識を総動員し、分からない単語はネットで調べた。「crème fraîche」を「生クリーム」と訳すべきか、それとも「フレッシュクリーム」とすべきか。細かいニュアンスに悩みながら、咲は一語一語、丁寧に訳していった。

三日かけて、完成させた。クライアントからの評価は、★5つ。『丁寧な翻訳、ありがとうございました。またお願いしたいです』そのコメントを見た瞬間、咲の目から、涙がこぼれた。誰かに、認められた。「母親」としてでも、「妻」としてでもなく、「翻訳者・野々宮咲」として。咲は、その報酬3000円を、自分専用の口座に振り込んだ。そして、その通帳を、じっと見つめた。これは、私が稼いだお金。誰のためでもない、私自身の力で得たお金。咲は、その通帳を、大切に引き出しにしまった。これは、新しい人生の、第一歩なのだ。

その後、咲は、少しずつ翻訳の仕事を増やしていった。料理レシピ、観光ガイド、商品説明文。どれも小さな仕事だったが、咲にとっては、一つ一つが大切だった。月の収入は、5000円、8000円、そして1万円を超えた。咲は、その収入を、夫にも、姑にも、まだ話していなかった。もう少し、実績を積んでから。もう少し、自信をつけてから。そう思っていた。

ある日、咲は翻訳作業中に、壁にぶつかった。観光ガイドの中に、フランスの歴史的建造物の説明があり、専門的な用語が並んでいた。辞書を引いても、ニュアンスが掴めない。咲は、困り果てていた。その時、栞のサロンで聞いた言葉を思い出した。「困った時は、助けを求めていいのよ」咲は、思い切って、栞にメッセージを送った。『栞さん、翻訳で困っていることがあって……相談に乗っていただけませんか?』

栞からは、すぐに返信が来た。『もちろんです。明日、サロンにいらっしゃいませんか? 実は、私、以前、翻訳の仕事をしていたことがあるんですよ』咲は、驚いた。栞さんが、翻訳を?翌日、咲は栞のサロンを訪れた。栞は、咲が困っている箇所を見て、すぐにアドバイスをくれた。そして、こう言った。「咲さん、もし、作業効率を上げたいなら、AI翻訳ツールを使ってみてはどうですか?」「AI……翻訳?」

「ええ。DeepLやGoogle翻訳など、今はとても精度の高いAI翻訳ツールがあります。もちろん、それだけでは完璧な翻訳にはなりませんが、咲さんの知識と組み合わせれば、効率が何倍にもなりますよ」栞は、タブレットを取り出し、DeepLの使い方を咲に教えた。「まず、AIに翻訳させます。そして、その訳を、咲さんの知識で『編集』するんです。文学的なニュアンスや、文化的な背景は、AIには分かりません。そこが、咲さんの腕の見せ所です」

咲は、目から鱗が落ちる思いだった。帰宅後、咲は早速、DeepLを使って翻訳作業をしてみた。驚くほど、作業時間が短縮された。そして、AIの訳を自分の知識で磨き上げることで、より質の高い翻訳ができるようになった。咲の翻訳は、クライアントから高い評価を受けるようになり、依頼も増えた。月の収入は、3万円、5万円と増えていった。咲は、少しずつ、自信を取り戻していった。私にも、できることがある。私にも、価値がある。そう思えるようになった。

第14章「凛子と朝倉」へ続く      第12章「栞のサロン」へ戻る

タイトルとURLをコピーしました