第10章「最初の試練」

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その夜だった。高村凛子は、リビングのソファで本を読んでいた。夫の誠が、珍しく、書斎にこもらず、凛子の向かいに座った。「……凛子」誠が、下の名前で呼んだ。そのことに、凛子は、驚きで息をのんだ。一体、何年ぶりだろう。「どうしたの? あなた」「いや……。この間の、土曜日のことなんだが。お前、野々宮さんのところの奥さんと、神崎さんのところの奥さんと、出かけていたそうだな」「ええ。モエレ沼公園へ……」

「神崎さんのご主人と、今日、会合で一緒でな。聞いたんだ」誠は、そこで一度、言葉を切った。そして、ゆっくりと、値踏みをするような目で、凛子を見た。「あそこのご主人が、少し、心配されていたぞ。最近、奥さんの様子が、少し変わった、と。妙なことに、興味を持ち始めたんじゃないか、ってな」妙なこと。その言葉が、冷たい刃物のように、凛子の胸に突き刺さる。ああ、そうか。私たちの、あのささやかな変化は、夫たちの世界では、もう「異常」として認識されているのだ。

誠は、続けた。その声は、あくまで穏やかだったが、その底には、有無を言わさぬ、絶対的な圧力がこもっていた。「お前が、誰と付き合おうと、俺は構わん。だがな、高村家の妻として、品位を欠くような行動だけは、慎んでもらいたい。変な噂が立つのは、迷惑なんだよ」品位。迷惑。誠の口から紡がれる言葉は、すべて、彼自身の世界の論理だった。以前の凛子なら、ここで、きっとこう言っただろう。「ごめんなさい。気をつけます」と。だが、今の凛子は、違った。

彼女は、深く、息を吸った。そして、できる限り、穏やかな声で、しかし、一言も、震えることなく、言った。「あなた。私は、あなたがこの家に飾るための、完璧な置物ではありません」誠の眉が、ぴくりと動いた。「……何の話だ?」「あなたと私がいて、初めて『夫婦』という景色が生まれるのだと、私は思うのです。でも、私たちの目の前に広がる景色は、もう何年も、冬のように凍てついたまま。木々は枯れ、風も吹かず、ただ、冷たい空気が横たわっているだけ……」

凛子は、真っ直ぐに、誠の目を見つめた。「私は、もう、その景色をただ黙って見ているだけなのは、嫌なのです。たとえ小さな石を一つ動かすことでもいい。そこに、ほんの少しでも、温かい風が通るような景色を、私は、あなたと一緒に、もう一度、作りたい」それは、凛子の人生における、初めての「革命」だった。誠は、明らかに、狼狽していた。「……疲れているのか、お前」長い沈黙の後、誠が吐き出したのは、その一言だった。

彼は、凛子の言葉を、対等な個人の意見としてではなく、ヒステリーか、何かの病気の症状として、処理しようとしている。誠は、立ち上がると、「少し、頭を冷やせ」と言い残し、書斎へと消えていった。一人、リビングに残された凛子。全身の力が、抜けていくようだった。足が、微かに震えている。負けたのだろうか。結局、何も、伝わらなかった。だが、不思議と、絶望はなかった。むしろ、胸の奥には、今まで感じたことのないような、静かで、しかし、確かな感覚が、生まれていた。それは、「自分の足で、大地に立った」という、感覚だった。

書斎のドアが閉まる、冷たい音がリビングに響く。凛子は、一人、ソファに座ったまま動けなかった。震える手で、スマートフォンを手に取る。開いたのは、麗奈と咲とのグループメッセージの画面。そこに、彼女は、長い時間をかけて、言葉を打ち込んだ。『今夜、私は、初めて、自分の言葉で話しました』送信ボタンを押した後、凛子はスマートフォンの電源を切った。返信を見るのが、怖かったのだ。同情も、励ましも、今は、いらない。ただ、この、嵐の後の、耳が痛くなるほどの静寂の中で、自分の心の震えだけを、感じていたかった。

凛子は、窓の外を見つめた。札幌の夜景が、いつものように広がっている。でも、今夜は、その景色が、少しだけ違って見えた。あの無数の光の一つ一つに、凛子と同じように、誰かが戦っているのかもしれない。誰かが、勇気を出して、一歩を踏み出しているのかもしれない。凛子は、小さく微笑んだ。私は、一人じゃない。そう思うと、少しだけ、心が軽くなった。

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