モエレ沼公園での邂逅から数日、三人の間には、以前とは質の違う、穏やかな空気が流れていた。グループメッセージが、再び、他愛もないことで静かに行き交うようになったのだ。麗奈が投稿した、新しく見つけたカフェの写真。それに咲が、『わ、素敵! 今度、子どもがいない時に行ってみたいな』と、以前では考えられなかった「自分の願望」を、ごく自然にコメントする。すると、凛子が、『ここのガレット、美味しいのよね。でも、窓際の席は少し冷えるから、ストールを持っていくといいわ』と、実用的なアドバイスを返す。
それは、大きな変化ではなかった。だが、鎧を着て互いの幸福を競い合うような、あの頃の会話ではなかった。そこには、それぞれの日常を尊重しつつ、ささやかな情報を交換し合う、対等な友人としての、心地よい「関係」が、生まれ始めていた。その変化は、彼女たちの内面で、より深く、静かに進行していた。高村凛子は、あの日以来、夫である誠との「関係」を、まるで研究対象のように、冷静に観察していた。私と、夫。その間にある、この冷たく、広大な空間。これを、彫刻する。形を、変える。
凛子は、まず、小さなことから試してみた。朝、ゴルフに出かける誠に、「今日のゴルフ場、確か、紅葉が綺麗なところよね。楽しんできて」と、一言だけ、情報を付け加えてみた。誠は、一瞬、意外そうな顔をしたが、「ああ、そうだな」と、短く答えて出て行った。変化は、ない。だが、凛子の心には、小さな石を一つ、あるべき場所に置けたような、静かな手応えがあった。次の日、凛子は、夕食の時に、誠に質問をしてみた。「今日の会議、どうだった?」誠は、スマートフォンから目を上げ、少しだけ驚いた顔をした。
「……まあ、いつも通りだ」その返事は、素っ気なかった。だが、凛子は、そこで諦めなかった。「そう。でも、あなた、少し疲れているように見えるわ。何か、大変なことがあった?」誠は、しばらく黙っていた。そして、ぽつりと言った。「……まあ、取引先との交渉が、少し難航していてな」それだけだった。でも、凛子にとっては、十分だった。誠が、自分に、仕事の話をしてくれた。それは、何年ぶりのことだろう。凛子は、小さく頷いた。「そう。大変ね。でも、あなたなら、きっとうまくいくわ」
誠は、何も言わなかったが、その夜、書斎にこもる時間が、いつもより少し短かった。神崎麗奈は、あの日以来、インスタグラムへの投稿が、少しだけ億劫になっていた。(この写真は、誰との「関係」を、デザインしているのだろう?)答えは、出ない。だが、その問いが生まれたこと自体が、麗奈にとっては大きな変化だった。ある日、麗奈は、娘たちと公園に行った。いつもなら、娘たちの「可愛い瞬間」を撮影するために、カメラを構えるのだが、今日は違った。
麗奈は、スマホをバッグにしまい、ただ、娘たちと一緒に遊んだ。ブランコを押し、滑り台を滑り、鬼ごっこをした。長女の美咲が、「ママ、一緒に鬼ごっこしよう!」と言った時、麗奈は迷わず頷いた。「いいわよ! ママが鬼ね!」麗奈は、娘たちを追いかけた。息が上がる。髪が乱れる。メイクが崩れる。でも、楽しかった。娘たちの笑い声が、麗奈の心を、温かく満たした。帰り道、次女の愛華が、麗奈の手を握りながら言った。「ママ、今日、楽しかった」
その一言が、麗奈の胸に、温かく染み込んだ。今日は、一枚も写真を撮らなかった。だから、インスタグラムに投稿するものは何もない。でも、それでいい。今日の「いいね」は、愛華の笑顔だけで十分だった。野々宮咲は、キッチンに立つ時間が、少しだけ楽しくなっていた。(今日の、この豚肉と、このピーマンの「関係」を、どうデザインしようかしら)そう思うと、退屈な作業が、クリエイティブな遊びのように思えてくる。
咲は、いつもより少し手の込んだ、青椒肉絲(チンジャオロースー)を作った。大学時代、友人と中華料理店でアルバイトをしていた時に覚えたレシピだ。あの頃は、料理が楽しかった。誰かのためではなく、自分が作りたいから作る、という純粋な喜びがあった。夕食の時間。智也が、一口食べて、顔を上げた。「……うまいな、これ」その一言が、咲の心に、小さな花を咲かせた。智也は、いつも通り、それ以上何も言わなかったが、おかわりをした。それだけで、咲には十分だった。小さな石を、一つ、置けた気がした。
その夜、咲は、久しぶりに、大学時代のフランス語の教科書を開いてみた。ページをめくると、懐かしい活字が並んでいる。咲は、声に出して、フランス語を読んでみた。舌がもつれる。発音が正しいか、自信がない。でも、心地よかった。この言葉が、かつて自分を夢中にさせたことを、思い出した。咲は、ふと思った。この知識を、もう一度、活かせないだろうか。翻訳の仕事。在宅でできる。咲は、パソコンで「フランス語 翻訳 在宅ワーク」と検索してみた。画面には、クラウドソーシングサイトの情報が並んでいた。
咲の心臓が、早く打ち始めた。でも、私にできるだろうか。ブランクは十年以上ある。それに、専門的な翻訳なんて、やったことがない。不安が、押し寄せてくる。だが、咲は、凛子の言葉を思い出した。「関係は、デザインできる」もし、私が「ただの主婦」ではなく、「翻訳者」としての自分を取り戻せたら。夫との関係も、変わるかもしれない。咲は、小さく息を吸い込んだ。そして、クラウドワークスのサイトに、アカウントを作成し始めた。これは、小さな、小さな一歩。でも、確実な一歩だった。

