週末の札幌は、嘘のように晴れ渡っていた。空は、どこまでも高く、澄んだガラスのように、脆ささえ感じさせるほど青い。その青の下、モエレ沼公園の入り口に、三人の女たちが、まるで申し合わせたかのように、少しだけ離れて立っていた。最初に沈黙を破ったのは、この集まりの発起人である神崎麗奈だった。「ご、ごめんなさい、急に誘っちゃって。なんだか、みんな忙しいのに、悪いことしちゃったかなって……」その声は、インスタグラムで何千もの「いいね」を集める、自信に満ちた彼女の声ではなかった。
「ううん、そんなことないわ」答えたのは、高村凛子だった。彼女は、いつも通りの冷静な表情を装っていたが、その手には、公園のパンフレットが固く握られている。「私、一度来てみたかったの。イサム・ノグチの建築、興味があったから」その言葉は、麗奈を安心させると同時に、この集まりに「知的な目的」という、安全な理由を与えた。野々宮咲は、ただ、小さく頷いた。朝、家を出てくるときの、姑の詮索するような視線。夫の、少しだけ不満そうな顔。それらすべてを振り切ってここに来てしまった罪悪感で、まだ胸がいっぱいだった。
三人の間には、まだ、あの読書会の気まずさが、薄い氷のように張り付いている。「さ、行きましょうか」凛子のその一言で、三人は、おずおずと公園の中へと足を踏み入れた。日常から切り離された、圧倒的な非日常の風景。それは、三人の間に横たわる、言葉にならない感情の澱を、少しだけ洗い流してくれるようだった。彼女たちは、目的もなく、ただ、広大な敷地をゆっくりと歩き始めた。目の前に、幾何学的な、緑の芝生に覆われた巨大な山が現れる。プレイマウンテンだ。
その山の、真っ直ぐに続く階段を、子どもたちが歓声をあげながら、駆け上がっていく。その姿を見て、咲の足が、ふと止まった。(ああ、あの子たちを、連れてきてあげたかったな……)いつもの、母親としての条件反射。だが、今日は、その感情のすぐ後に、別の、小さな声が聞こえた。(ううん。今日は、いいの)今日は、あの子たちの母親ではない、ただの「私」でいるために、ここに来たのだから。三人は、何も言わずに、その山を見上げた。そして、同じことを思っていた。登ってみたい、と。
「……登る?」麗奈が、恐る恐る尋ねた。「ええ、登りましょう」凛子が、いつもの冷静な声で答えた。「私も」咲が、小さく頷いた。三人は、階段を登り始めた。最初は、ゆっくりと。だが、次第に、ペースが上がっていく。息が上がる。足が痛い。でも、止まらない。頂上に着いた時、三人は、息を切らせながら、眼下に広がる景色を見つめた。どこまでも広がる空。遠くに見える札幌の街。そして、自分たちが登ってきた道。
「……すごいわね」麗奈が、呟いた。「ええ」凛子が、答えた。「綺麗……」咲が、涙声で言った。三人は、並んで、空を見上げた。その瞬間、あの読書会での気まずさが、風に吹き飛ばされたような気がした。昼食は、ガラスのピラミッドの中にあるレストランでとることにした。前菜が運ばれ、麗奈が、いつものように、完璧なアングルで写真を撮り終えた後だった。凛子が、ふと、窓の外に広がる公園の風景を見ながら、独り言のようにつぶやいた。
「イサム・ノグチって、面白い人なのね。さっきパンフレットを読んでいたら、彼は『自分は彫刻家だが、彫刻そのものを作っているのではない』って言っていたそうよ」「どういうこと?」麗奈が、ナイフとフォークを置き、身を乗り出した。「彼は、石や、木や、金属そのものを彫るんじゃなくて、それらと、それらが置かれる空間との『関係』を彫刻していたんだって」凛子の声は、いつもの冷静な声だった。だが、そこには、新しい発見をした子どものような、微かな熱がこもっていた。
「例えば、ただの石も、広大な大地の上にぽつんと置かれることで、空と、大地と、それを見る人間との間に、新しい『関係』が生まれる。彼は、その、目には見えない『間(あわい)』こそを、デザインしたかったみたいなの」凛子は、言葉を続けた。それは、まるで、自分自身に言い聞かせるための、確認の作業のようだった。「それを読んで、思ったの。私たちも、同じなのかもしれないって」「……同じ?」「ええ。私たちは、自分たちのことを、『妻』とか、『母親』とか、そういう、固定された、固い『彫刻』そのものだと思っているけれど……」
凛子は、そこで一度、言葉を切った。そして、二人を、いや、自分自身を見つめるように、静かに言った。「でも、本当は、違うのかもしれない。それは、私たち自身のことではなくて、夫と私の『関係』、子どもと私の『関係』に付けられた、ただの名前に過ぎないんじゃないかって。そして、もし、そうだとしたら……」凛子の目が、窓の外の、プレイマウンテンに向けられた。「その『関係』は、イサム・ノグチの彫刻みたいに、私たちの手で、少しだけ、形を変えたり、置き方を変えたり、できるものなんじゃないかしらって……」
その言葉が、レストランの明るい空間に、静かに、静かに、染み渡っていった。咲は、息をのんだ。「関係を、変える……」その発想は、咲にとって、天啓のようだった。「母親」という、自分そのものだと思っていた役割が、ただの「関係」の名前だとしたら?麗奈は、目の前の、美しく盛り付けられた魚料理を見ていた。一つ一つの食材は、それだけではただの食材だ。だが、シェフが、その「関係」をデザインすることで、それは、一つの芸術的な料理になる。夫と私。その、固定されてしまった「関係」を、このソースのように、違う線で描き直すことが、できるというのだろうか。
誰も、何も言わなかった。ただ、三人の心の中で、凛子の言葉が、静かな、しかし、巨大な波紋となって広がっていった。それは、答えではなかった。だが、今まで誰も気づかなかった、新しい「問い」の始まりだった。食事が終わり、三人は、言葉少なげに公園を後にした。だが、来た時のような、気まずい沈黙ではなかった。それは、それぞれが、自分の中に生まれた新しい「問い」を、大切に温めているような、穏やかで、満ち足りた沈黙だった。

