栞からのメッセージを受け取った翌日。神崎麗奈は、衝動的に、凛子と咲にメッセージを送っていた。『ねえ、みんな。今度の週末、モエレ沼公園に行かない?』送信した直後、麗奈は激しい後悔に襲われた。(何てことをしてしまったんだろう)あの読書会の後、三人の間には、気まずく、重たい沈黙が横たわっている。それなのに、まるで、何もなかったかのように。能天気で、無神経な女だと思われたに違いない。既読のサインは付いているのに、凛子からも、咲からも、返信はまだない。その沈黙が、麗奈の不安を掻き立てた。
なぜ、あんなメッセージを送ってしまったのだろう。きっかけは、些細なことだった。昼下がり、いつものようにインスタグラムのタイムラインを眺めていた時、ある風景写真家の投稿が目に留まった。それは、モエレ沼公園のガラスのピラミッドが、どこまでも広がる青空を映し込んでいる、ただそれだけの写真だった。その、空っぽの、しかし、すべてを吸い込んでくれそうな圧倒的な「青」を見た瞬間、麗奈は、たまらなくなったのだ。自分の心が、今、この写真の空と同じくらい、からっぽなのだと、不意に突きつけられた気がして。
そして、その空っぽを、誰かに、何かに、埋めてほしくて。気づいた時には、指が勝手に動いていた。高村凛子は、麗奈からのメッセージを、眉間に皺を寄せながら見ていた。モエレ沼公園。合理的ではない。それが、凛子の最初の感想だった。凛子の指は、いつものように、丁寧だが、やんわりと断るための文章を組み立て始めていた。『素敵なお誘い、ありがとう。でも、週末は少し家の用事が立て込んでいて……』だが、凛子の指は、送信ボタンを押す寸前で、ぴたりと止まった。
窓の外に目をやる。三十八階から見下ろす札幌の街は、今日も完璧な秩序を保っている。だが、今の凛子の目には、その整然とした街並みが、まるで息苦しい檻のように見えた。『なんだか、急にあの広い空が見たくなっちゃって!』麗奈の、その、あまりに非論理的で、感情的な言葉。以前の凛子なら、それを「浅薄だ」と心の中で断じたことだろう。だが、今の凛子には、その言葉が、助けを求める小さな狼煙のように見えた。そして、その狼煙は、自分自身の心の奥底からも上がっているような気がした。
秩序の外へ。論理の外へ。ただ、空っぽの空の下へ。行きたいかもしれない。凛子は、自分が組み立てた完璧な言い訳の文章を、一文字ずつ、消していった。そして、代わりに、たった一言だけ、打ち込んだ。『行くわ』送信した瞬間、心臓が、少しだけ速く打った。それは、予定調和を破ったことに対する、小さなスリルだった。野々宮咲は、麗奈からのメッセージに、返信できずにいた。洗濯物を畳みながら、夕食の支度をしながら、子供を風呂に入れながら、その短い文章が、ずっと頭の片隅にこびりついて離れない。
モエレ沼公園。子どもたちが小さい頃、一度だけ家族で行ったことがある。完璧な「家族サービス」の場所。そこに、友人たちと行く?母親である自分が?夫も、子供も抜きで?(ありえない)それが、咲の思考を支配する、絶対的な答えだった。だが、夜。三人の息子たちが、それぞれの寝息を立て始め、家全体が深い静寂に包まれた時。咲は、そっと、あの読書会で栞が紹介していた文庫本を思い出した。あの言葉を口にして以来、咲の世界は、少しだけ、色が変わって見えていた。
例えば、夕食後、夫が当たり前のように置いていった食器を、何も言わずに片付けている時。以前は何も感じなかったはずなのに、今は、胸の奥に、ちいさな、ちいさな石ころが、一つ置かれたような感覚がある。麗奈さんの、『急にあの広い空が見たくなっちゃって!』という言葉。咲には、その言葉が、まるで自分の心の叫びのように聞こえた。この、壁と天井に囲まれた、優しい檻の中から、ただ、広い場所へ出てみたい。誰のものでもない、空っぽの空の下で、深く、息を吸ってみたい。
咲は、グループメッセージの画面を開いた。凛子さんが、すでに行く、と返信している。残るは、自分だけ。指が、震える。罪悪感が、津波のように押し寄せてくる。けれど、でも——。咲は、目を閉じた。浮かんでくるのは、息子たちの可愛い寝顔。愛している。心の底から。けれど、このままでは、いつか、この子たちを、心から可愛いと思えなくなる日が、来てしまうかもしれない。その恐怖が、罪悪感を、ほんの少しだけ、上回った。咲は、祈るような気持ちで、短い返事を打ち込んだ。『私も、行きたいです』
送信ボタンを押すと同時に、咲はスマートフォンの電源を切り、布団の中に潜り込んだ。まるで、重大な犯罪を犯してしまった後のように、心臓が激しく鳴っていた。でも、同時に、胸の奥に、小さな、小さな光が、灯ったような気がした。それは、希望なのか、それとも、ただの幻想なのか、咲にはまだ分からなかった。

