第5章「初めての読書会」

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約束の日。凛子、麗奈、咲の三人は、栞の部屋の前に立っていた。三人とも、なぜか少しだけ緊張していた。ドアが開くと、そこには三人が想像していたものとは、全く違う空間が広がっていた。壁一面が、床から天井までの本棚になっていた。磨き上げられた無垢材の床。窓際には、大きな観葉植物が静かに呼吸している。そして、部屋全体に、清らかで、心が落ち着くような香りが満ちていた。ラベンダーとサンダルウッドの混ざった、優しい香り。

そこは、誰かに見せるための部屋ではなく、ただ、この部屋の主である雨宮栞のためだけに存在する、聖域のようだった。中央のローテーブルには、美しいガラスのポットに注がれたハーブティーと、栞が手作りしたという素朴なクッキーが並んでいた。そして、そこには、数冊の文庫本が、丁寧に並べられていた。四人は、ソファに腰を下ろした。最初は少しぎこちなく、それぞれの「幸せ」を報告しあう、饒舌なゲームのような会話が始まった。

麗奈は、予約困難なフレンチレストランでの食事の話を。凛子は、美術館で過ごした知的な時間の話を。そして咲は、息子たちの成長という、母としての喜びの話をした。一通り、それぞれの物語が語り尽くされ、ふっと会話が途切れた。その沈黙を、誰も埋めようとしなかった。栞は、静かにお茶を一口飲み、テーブルの上の本を一冊手に取った。「さて、今日は皆さんに、いくつか本をご紹介したいと思っているのですが」栞が手にしたのは、ある女性作家のデビュー作だった。

「この物語は、ある女性の『目覚め』について書かれています。主人公は、完璧な妻、完璧な母として生きてきた女性。でも、ある日、ふと気づくんです。自分が誰なのか、分からなくなっていることに」栞は、本の表紙を撫でながら、穏やかに語り続けた。「彼女は、社会が求める『正しい女性』の役割を、完璧に演じてきました。でも、その仮面の下で、本当の自分は、少しずつ窒息していた……」その言葉が、三人の胸に、静かに染み込んでいく。

「物語の中で、彼女はこう言うんです。『私は、誰かの妻であり、誰かの母であるけれど、では、私自身は誰なのか』と」栞は、本を置いた。「もし、皆さんがこの主人公の立場だったら……どう感じると思いますか?」しばらくの沈黙の後、凛子が口を開いた。「……分かる気がします。役割と、自分自身が、どこかで混ざってしまって、境界線が見えなくなる感覚」麗奈が、少し躊躇いながら続けた。「私も……インスタグラムで『カリスマ主婦』を演じていると、時々、どれが本当の自分なのか、分からなくなることがあります」

咲は、何も言えずに、ただ俯いていた。栞は、三人の様子を静かに見つめた後、優しく微笑んだ。「では、質問を変えましょうか」栞は、三人を見渡した。「もし、皆さんが、今の生活の外に何か一つだけ、ご自分のためだけに手に入れられるとしたら……それは、何ですか?」しん、と部屋が静まり返った。夫のためではない。子供のためでもない。ただ、自分のためだけに。その言葉が、三人の胸に、ずしりと重くのしかかる。

麗奈の頭を、華やかな言葉が駆け巡ったが、どれも、この部屋の空気の中では、虚しく響くことだろう。凛子の心に、知的な単語が浮かんだが、それが本当に渇望しているものなのか、自信がなかった。そして、咲。彼女の頭の中は、真っ白になった。自分のための望み。その引き出しは、もう何年も開けたことがなかった。長い、長い沈黙の果てに、か細い、ほとんど吐息のような声が、その静寂を破った。「……眠りたい」凛子と麗奈が、はっとして声の主を見た。野々宮咲だった。

咲は、顔を上げられないまま、言葉を続けた。その声は、微かに震えていた。「立派なものが欲しいわけじゃ、ないんです。旅行に行きたいとか、そういうことでもなくて……ただ……」一度堰を切った言葉は、もう止まらなかった。それは、願いというよりも、魂の叫びだった。「……一人で、眠りたいです。夜中に、子供の咳や、寝言で目を覚ますことなく。夫の寝返りを気にすることもなく。朝、階下のお義母様の気配で、飛び起きることもなく。鍵のかかる、真っ暗で、静かな部屋で、ただ、泥のように、眠りたい……。朝のアラームが鳴るまで、一度も起きずに、眠るということが、もう、何年も、思い出せないから……」

その、あまりに切実で、あまりに純粋な告白が、硬質なガラスのようだったこの部屋の空気を、粉々に打ち砕いた。麗奈は、一瞬、呼吸を忘れた。咲の告白に共感しかけている自分自身に、激しい嫌悪感が湧き上がっていた。凛子は、目の前で剥き出しにされた感情の扱いに戸惑い、どう反応すべきか、完璧な正解が見つけられずにいた。咲は、自分の失言を、死ぬほど後悔した。完璧な仮面舞踏会は、終わってはいない。ただ、一人の踊り子の仮面がずり落ち、その下にある涙の痕跡が見えてしまっただけだ。

他の二人は、その痛々しい素顔から目を逸らし、慌てて自分の仮面を強く押さえつけていた。その重苦しい沈黙を破ったのは、この部屋の主、雨宮栞だった。彼女は、驚きも、同情も見せず、ただ、先ほどと全く変わらない穏やかな声で、言った。「ええ。それは、とても大切で、美しい望みね」その言葉は、誰にも届いていないようだった。麗奈は、手元の時計に目を落とし、作り物のように完璧な笑顔を浮かべた。「あら、もうこんな時間!ごめんなさい、私、この後、娘のお迎えが……。栞さん、今日は本当に、ありがとうございました」

その言葉を皮切りに、読書会は終わりへと向かっていく。帰り道のエレベーターの無機質な下降音だけが、三人の間に横たわる、深く、気まずい溝の存在を、雄弁に物語っていた。三人は、誰も口を開かなかった。ただ、それぞれが、自分の中に生まれた何かを、持て余していた。

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