第4章「風穴」

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雨宮栞が、このタワーマンションに引っ越してきたのは、十一月の初めだった。高村凛子が初めて彼女を見かけたのは、マンション内のフィットネスジムでのことだ。午後二時。平日の昼間、ジムを利用する住人はほとんどいない。凛子は、トレッドミルで淡々と走りながら、窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。走ることで、何かから逃げているような気がした。でも、何から逃げているのか、凛子自身にも分からなかった。

そこに、一人の女性が入ってきた。黒いトレーニングウェアに身を包んだ彼女は、凛子が今まで見てきたこのマンションのどの住人とも違う、静かで知的な空気をまとっていた。年齢は四十代半ば。短く切った髪、すっぴんに近いメイク、だが、その佇まいには、確かな存在感があった。「こんにちは」女性が、会釈をした。「こんにちは。三十八階の高村です」凛子も、丁寧に返した。「まあ、上の階の方でしたのね。先日越してまいりました、三十七階の雨宮栞と申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」

その声は、落ち着いていて、耳に心地よかった。栞は、ヨガマットを敷き、静かにストレッチを始めた。凛子は走りながら、その姿を横目で見ていた。彼女の動きには、無駄がない。一つ一つのポーズが、まるで舞踏のように美しい。そして、何より、彼女は誰にも見せるためではなく、ただ自分のために、体を動かしているように見えた。トレーニングを終え、ラウンジで休んでいると、再び栞と顔を合わせた。「高村さんは、いつもこちらを?」栞が、窓際の席に座りながら尋ねた。「ええ、まあ、平日の昼間は空いていますし」「素敵な空間ですよね。まるで、街の喧騒から切り離されたサンクチュアリ(聖域)みたい」

サンクチュアリ。その言葉の響きに、凛子は少しだけ胸を突かれた気がした。「雨宮さんは、読書がお好きなんですか」凛子は、栞の手元にある文庫本に目をやった。「ええ。本は、ここではないどこかへ連れて行ってくれる翼ですから」翼。その言葉もまた、凛子の心に小さなさざ波を立てた。「昔は、私もよく読んだのですけれど……結婚してからは、すっかり」「そう。どんな本を?」「……もう、忘れてしまいました」凛子は、少し寂しそうに笑った。本当に、忘れてしまったのだ。かつて自分がどんな物語に胸をときめかせ、どんな言葉に心を震わせたのか。

栞は、優しい目をしたまま、言った。「もしよろしければ、来週、私の部屋で小さな読書会を開くのですけれど、いらっしゃいませんか。昔の翼を、もう一度広げてみるのも、悪くないかもしれませんよ」それは、あまりに唐突で、しかし不思議と不快ではない誘いだった。「読書会、ですか……」「ええ。堅苦しいものではありませんわ。美味しいお茶を飲みながら、ただおしゃべりするだけ。お友達も、ご一緒にいかが?」栞の浮かべた微笑みは、このマンションの住人たちが浮かべる、社交辞令のそれとは全く違って見えた。凛子は、なぜか断ることができなかった。

その夜、凛子は友人の神崎麗奈と野々宮咲にメッセージを送った。麗奈は、同じマンションの住人で、元モデルという華やかな経歴を持つ女性だ。咲は、円山から少し離れた住宅街に住む、三人の息子を育てる母親。二人とは、子育て支援のイベントで知り合い、時折ランチを共にする仲だった。といっても、その関係は、互いの「完璧な生活」を褒め合うだけの、表面的なものだったが。『素敵な方に、読書会に誘われたの。もしよかったら、一緒にどう?』

麗奈からは、すぐに返信が来た。『素敵! ぜひ参加させてほしいわ』咲からの返信は、少し遅かった。『ありがとう。でも、私は……子供たちから目が離せなくて』凛子は、画面を見つめて考えた。咲さんは、いつもそうだ。自分のことは後回しにして、家族のことばかり。凛子は、もう一度メッセージを送った。『たった二時間よ。息抜きも必要だと思うわ』しばらくして、咲から返信が来た。『……ちなみに、どんな会なの?』凛子は、栞から聞いていた内容を打ち込んだ。『お茶を飲みながら、本について語り合うそうよ。栞さんがいくつか本を紹介してくださるみたい』

さらに時間が経ってから、咲から短い返信が来た。『……行きたいです』凛子は、画面を見つめて、静かに微笑んだ。何かが、動き始めた気がした。この街の、この冬の、静かな夜に、小さな、しかし確かな変化の予感が、凛子の胸に芽生えていた。それは、期待なのか、不安なのか、凛子自身にも分からなかった。ただ、この予感が、嫌いではなかった。窓の外では、また雪が降り始めていた。

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