第3章「透明な存在」

短編小説【完璧な妻が壊れた夜に】
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野々宮咲の朝は、午前五時に始まる。アラームが鳴る前に目が覚める。それは、長年の習慣というより、もはや体に刻み込まれた条件反射だった。隣で眠る夫・智也の寝息を確認し、そっとベッドを抜け出す。足音を立てないよう、スリッパも履かずに階段を下りる。真冬の廊下は冷たいが、咲は慣れていた。この冷たさが、一日の始まりを告げる合図なのだ。キッチンに立つと、咲は深く息を吸い込んだ。これから始まる一日の戦いに備えて、心を整える。戦い。そう、咲にとって、毎日は戦いだった。

まず、夫の弁当。智也は建設会社の現場監督で、体力仕事だ。ボリュームのあるおかずを三品、ご飯はぎっしりと詰める。次に、三人の息子たちの弁当。中学二年の長男・大輝は野球部で食べ盛り。小学五年の次男・颯太は好き嫌いが多い。小学二年の三男・蓮は、キャラ弁でないと食べない。三人三様の要望に応えながら、咲は機械のように手を動かす。卵焼きを焼き、唐揚げを揚げ、野菜を茹でる。冷蔵庫の中身を把握し、賞味期限を気にしながら、献立を組み立てる。この作業を、咲は毎日、五時から六時半までの一時間半で終わらせる。

「ママー、制服どこー?」「ママ、算数の宿題やってない!」「ママ、お腹すいたー!」次々と階段を駆け下りてくる息子たち。咲は、同時進行で四つの要求に応える。「制服は洗面所のハンガーよ」「宿題は学校で休み時間にやりなさい」「朝ごはん、今すぐ用意するから待ってて」言いながら、咲はトーストを焼き、牛乳を注ぎ、フルーツを切る。息子たちは、咲の返事を待たずに、次々と要求を重ねてくる。まるで、咲がAIアシスタントか何かだと思っているかのように。

「咲、俺のワイシャツ、アイロンかかってるか?」階段を下りてきた智也が、新聞を片手に尋ねる。「玄関のクローゼットにかけてあるわ」「醤油」「はい」咲は反射的に醤油を手渡した。「ありがとう」の言葉はない。当然のように受け取られる。咲は、この十年間、夫から「ありがとう」と言われた記憶がほとんどない。いや、もしかしたら、言われているのかもしれない。でも、咲の耳には、もう届かなくなっているのだ。

朝食が終わると、咲は息子たちの歯磨きを監督し、忘れ物がないかチェックし、玄関まで見送る。智也は「行ってくる」とだけ言って、車で出ていった。ようやく静寂が訪れる。咲は、散らかったダイニングテーブルを見渡した。食べかけのトースト、こぼれた牛乳、脱ぎ散らかされたパジャマ。溜息をつく間もなく、咲は片付けを始めた。テーブルを拭き、皿を洗い、洗濯機を回す。

午前九時。ようやく自分の朝食をとる時間だ。といっても、息子たちの食べ残しのトーストと、冷めた味噌汁だけ。立ったまま、五分で食べ終える。座って食事をする時間すら、惜しい。いや、座ってしまったら、もう立ち上がれない気がする。洗濯機を回し、掃除機をかけ、姑・千代子の部屋に朝のお茶を持っていく。「咲さん、おはようございます」千代子は、穏やかに微笑んだ。「おはようございます、お義母様」「今日は寒いわね。智也は暖かい格好をしていった?」「はい、マフラーも巻いて出ました」「そう。あなたは本当によくやってくれるわ」

千代子の言葉は、優しい。でも、その優しさの裏に、常に「評価」の目があることを、咲は知っていた。この家の嫁として、合格点を取り続けなければならない。そのプレッシャーが、咲の肩に、いつも重くのしかかっている。「そういえば、咲さん」千代子が、湯呑みを置いた。「昨日、蓮のジャージ、少し裾がほつれていたでしょう。野々宮家の子なのだから、身だしなみは完璧にしてあげてね」咲の胸に、冷たい石が落ちた。昨夜、夜中の二時まで、長男の野球ユニフォームの泥汚れを手洗いしていた。そのあと、ほつれに気づいて、縫おうとしたが、針に糸を通す手が震えて、できなかった。疲れすぎて、視界がぼやけていたのだ。

「……申し訳ございません。すぐに直します」「いいのよ、責めているわけじゃないの。ただ、気をつけてね」千代子は微笑んだまま、そう言った。その微笑みが、咲には、見えない鎖のように感じられた。午後、咲はスーパーマーケットで買い物をしていた。特売の豚バラ肉、育ち盛りの息子たちが飲む牛乳、姑の好きな和菓子。カートを押しながら、咲はふと、隣のレジで会計をしている女性に目が留まった。スーツを着た、咲と同年代の女性。カゴの中には、一人分の惣菜と、ワインが一本。

彼女は、仕事帰りなのだろう。疲れた表情だが、どこか凛としている。自分の足で立ち、自分の人生を生きている、そんな強さを感じさせる。咲は、自分のカートを見下ろした。家族のための食材。夫のための、息子たちのための、姑のための。私のためのものは、何もない。夜、三人の息子たちを寝かしつけ、夫が寝室に入った後。咲は、ようやく一人の時間を得る。深夜一時。リビングのソファに座り、咲は膝を抱えた。静寂。誰もいない。誰も、私を必要としていない。

いや、違う。みんな、私を必要としている。でも、それは「野々宮咲」という個人ではなく、「便利な家政婦」としてだ。咲は、自分の手を見つめた。荒れた指先。ささくれ。乾燥したひび割れ。この手で、今日、自分自身を抱きしめただろうか。答えは、ノーだった。咲は、目を閉じた。涙が、一筋、頬を伝った。「……私は、誰?」その問いに、答えてくれる者は、誰もいなかった。ただ、時計の秒針の音だけが、規則正しく、時を刻んでいた。かつて、咲はフランス文学を専攻していた。サガン、デュラス、ボーヴォワール。彼女たちの言葉に心を震わせ、いつか自分も、誰かの心を動かす仕事がしたいと夢見ていた。でも今は、その夢も、記憶の彼方に消えてしまった。

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