第1章「磨かれた檻」
札幌、円山。この街の名前は、洗練された生活の代名詞だった。
高村凛子が住むタワーマンションの三十八階からは、札幌の街が箱庭のように見下ろせる。眼下に広がる整然とした街並み、遠くに霞む手稲山、そして冬には真っ白な雪が音もなく降り積もる静謐な世界。
それは、誰もが羨む「成功者の景色」だった。だが、凛子にとって、その景色は次第に檻の格子のように見えるようになっていた。美しいが、そこから出ることは許されない。そんな、磨き上げられた、透明な檻。
午後六時。凛子は、キッチンのアイランドカウンターに並べられた食材を見つめていた。
有機野菜、北海道産の黒毛和牛、築地から取り寄せた鮮魚。どれも一級品だ。夫・誠の健康を考え、栄養バランスを完璧に計算した献立。それを作ることが、凛子の「仕事」だった。
彼女は、かつて美術史を専攻し、ギャラリーでキュレーターとして働いていた。だが、結婚を機に、その仕事を辞めた。 誠が言った。「俺の稼ぎで十分だ。お前は、家で好きなことをしていればいい」
好きなこと。それが何なのか、今の凛子には、もう分からなかった。
「ただいま」 重厚な玄関ドアが開く音。夫の帰宅だ。 「おかえりなさい」
凛子は、十五年間、一日も欠かさず繰り返してきた言葉を、今日も口にした。誠は、スーツの上着をソファに放り投げ、ネクタイを緩めながらリビングに入ってくる。
「今日の夕食は?」 「鱈のムニエルと、根菜のポタージュよ」 「ああ。じゃあ、先にシャワー浴びてくる」
それだけだった。誠は凛子の顔を見ることも、「今日はどうだった?」と尋ねることもなく、そのまま寝室へと消えていった。
凛子は、無言で食卓の準備を続けた。ナプキンを折り、ワイングラスを磨き、カトラリーを正確な角度で置く。それは、高級レストランのような完璧さだったが、同時に、どこか葬儀の祭壇のような冷たさも漂っていた。
夕食の時間。二人は向かい合って座ったが、会話はほとんどなかった。
誠は手元のスマートフォンで株価をチェックし、時折、仕事の電話に出る。凛子は、自分が一時間かけて作った料理が、ほとんど機械的に咀嚼され、飲み込まれていくのを、静かに見つめていた。
かつて、この時間は、二人にとって特別なものだったはずだ。新婚当初、誠は凛子の料理を褒め、今日あった出来事を話してくれた。凛子も、自分の考えていることを、誠に話した。 でも、いつから、この沈黙が当たり前になったのだろう。
「……美味しい?」 思わず、凛子は尋ねた。誠は、画面から目を上げることなく答えた。 「ああ、いつも通りだ」
いつも通り。その言葉が、凛子の胸に鉛のように沈んだ。美味しいのではない。「いつも通り」なのだ。つまり、私がどれだけ工夫しても、誠にとってはすべて「同じ」なのだ。
凛子は、もう一度、何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。この沈黙を破ることが、怖かった。もし、本音を言ってしまったら、この脆い平穏が、壊れてしまうかもしれない。
食事が終わると、誠は書斎へ、凛子はキッチンへと、それぞれの持ち場に戻った。
皿を洗いながら、凛子は窓の外の夜景を見つめた。無数の灯りが、まるで星のように瞬いている。あの灯りの一つ一つに、人の営みがある。笑い声があり、涙があり、怒りがあり、情熱がある。
では、この部屋には? この、完璧に整えられた、塵一つないリビングには、何があるというのだろう。
凛子は、自分の手を見つめた。美容液を丁寧に塗り込んだ、白く、滑らかな手。しかし、その手が今日、誰かに触れられただろうか。誰かの温もりを感じだろうか。いや、それどころか、この手で、誰かに触れただろうか。夫に、手を伸ばしただろうか。
夜、ダブルベッドの端と端で、凛子と誠は背を向け合って眠る。
かつては、この距離が「お互いを尊重している証拠」だと思っていた。でも今は、この冷たい空間が、二人の間に横たわる巨大な溝のように感じられる。
天井を見つめながら、凛子は考えた。 私は、幸せなはずだ。経済的に恵まれ、美しい家に住み、夫は社会的地位のある人物。何一つ不自由はない。それなのに、どうしてだろう。胸の奥に、黒い穴が開いているような感覚がある。そこから、生きる実感が、音もなく流れ出ていくような。
凛子は、そっと自分の胸に手を当てた。心臓は、規則正しく動いている。でも、この鼓動は、本当に「生きている」証拠なのだろうか。それとも、ただの機械的な反復に過ぎないのだろうか。
暗闇の中で、凛子は小さく呟いた。 「……私は、誰?」
その問いに、答えてくれる者は、誰もいなかった。ただ、隣で眠る夫の、規則正しい寝息だけが、静かに響いていた。


