第6章「それぞれの動揺」

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あの読書会から三日。高村凛子の三十八階の部屋は、以前と何も変わらない、完璧な静寂に包まれていた。だが、その静寂の質は、以前とは明らかに違っていた。凛子は、リビングのソファに座り、分厚い美術史の本を開いていた。しかし、一文字も頭に入ってこない。活字の上を目が滑り、気づけば、野々宮咲の震える声を思い出している。「……眠りたい」あの言葉が、まるで水面に落ちたインクのように、凛子の整然とした思考をじわじわと侵食していく。

凛子は、咲に同情している自分と、同時に、彼女の告白によって乱された場の空気に、苛立ちを覚えている自分に気づいていた。自分のコントロールの及ばない、生々しい感情。それは、凛子の世界には不要なものだった。彼女は、タブレットを開き、「女性 睡眠負債 原因」「育児ノイローゼ チェックリスト」といったキーワードを打ち込んだ。咲が抱える問題は、個人的な感情の問題などではない。それは、分析され、解決されるべき、客観的な「課題」なのだ。そう思うことで、凛子は必死に自分の心の平穏を保とうとしていた。

凛子は、検索結果を眺めながら、メモを取り始めた。「睡眠負債の解消法」「家事分担の提案方法」「義母とのコミュニケーション術」。それらは、すべて論理的で、実用的な情報だった。でも、凛子の胸の奥では、小さな声が囁いていた。(咲さんが求めていたのは、こういうことじゃないかもしれない)その声を、凛子は必死に押し殺した。感情ではなく、論理で。それが、凛子の生き方だったから。

同じ頃、神崎麗奈は、鬼気迫るほどの集中力で、スマートフォンの画面と向き合っていた。あの読書会以来、麗奈は、まるで何かを振り払うかのように、インスタグラムの投稿に没頭していた。『今日は、親子でクッキー作り♡ エシレバターを贅沢に使って、サクサクに焼き上がりました』完璧な写真。完璧なキャプション。咲が吐露した、あの生活感にまみれた、泥臭い現実とは対極にある、きらきらと輝く幸福な虚像。これこそが、自分の世界なのだ。麗奈は、必死にそう言い聞かせた。

麗奈は、写真を何度も撮り直し、フィルターを何度も変え、キャプションを何度も書き直した。その作業に没頭している間だけは、あの読書会のことを忘れられた。だが、一度投稿を終えると、静寂が戻ってくる。そして、あの言葉が蘇る。「……眠りたい」麗奈は、自分の寝室を思い浮かべた。キングサイズのベッド。高級なマットレス。遮光カーテン。すべてが揃っている。でも、麗奈も、朝までぐっすり眠ったことなど、もう何年もなかった。

夜中に目が覚め、無意識にスマホを手に取り、「いいね」の数を確認する。その数字が少しでも減っていると、不安で眠れなくなる。(違う。咲さんとは違う)麗奈は、強く頭を振った。違う。私は幸せだ。欲しいものは、すべて手に入れている。そうでなければ、おかしい。麗奈は、再びスマホを開き、次の投稿の構図を考え始めた。立ち止まってはいけない。考えてはいけない。走り続けなければ。

そして、野々宮咲は、後悔の海に沈んでいた。あの日の帰り道、麗奈と凛子が、明らかに自分を避けるように、当たり障りのない話しかしてこなかったことを、咲は敏感に感じ取っていた。(馬鹿なことをした)自分だけが、みじめで、余裕のない女だと思われてしまった。咲は、それからの三日間、まるで贖罪でもするかのように、完璧な主婦であり、完璧な母であろうとした。床はワックスをかけて磨き上げ、三人の息子たちの服には、すべて丁寧にアイロンをかけた。姑の千代子には、毎朝、丁寧に淹れたお茶と、手作りの和菓子を持っていった。

その夜、三男が夜泣きをした。咲は、いつものように慣れた手つきで息子を抱き上げる。愛おしい。心の底から、愛おしいと思う。なのに、なぜだろう。息子の寝顔を見つめながら、咲の目から、ぽろりと一筋、涙がこぼれ落ちた。「眠りたい」と願った自分は、母親失格なのだろうか。自己嫌悪が、冷たい霧のように、咲の心を覆っていく。咲は、息子を寝かしつけた後、リビングのソファに座り込んだ。もう、あの読書会には、行けない。二人に、もう会わせる顔がない。

三人が、それぞれの殻に閉じこもり、後退しようとしていた、その時だった。三台のスマートフォンが、ほとんど同時に、静かに震えた。差出人は、雨宮栞。それは、一斉送信のメッセージではなかった。凛子へ、麗奈へ、そして咲へ。それぞれに宛てられた、短い、個別のメッセージだった。凛子に届いたのは、こうだった。『分析は、時に、真実から目を逸らすための、最も知的な逃避になり得ます。凛子さんの心が感じたものを、信じてあげてください』

麗奈に届いたのは、こうだった。『美しい鎧は、時に、自分自身をも傷つけます。鎧の下で、ほんの少しだけ、呼吸してみませんか』そして、咲に届いたのは、こうだった。『あなたの言葉は、とても勇敢で、美しいものでした。真実の言葉は、必ず、誰かの心を照らす光になります。自分を、責めないで』その言葉は、まるで全てを見透かしているかのようだった。三人は、それぞれの場所で、スマートフォンの画面を見つめたまま、動けなくなった。閉ざそうとしていた心の扉を、優しく、しかし、有無を言わさぬ力で、ノックされたような気がした。

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