咲の翻訳収入が、月に20万円を超えた頃。夫・智也との関係に、さらなる変化が生まれていた。智也は、今では、毎日、皿洗いを手伝ってくれる。週末には、洗濯物を干し、子供たちを公園に連れて行ってくれる。そして、何より、咲の仕事を、誇りに思ってくれるようになった。ある日、智也が、会社の同僚に、咲のことを話していた。「うちの嫁、すごいんだぞ。フランス語の翻訳で、月に20万も稼いでるんだ」
咲は、その話を、偶然、智也の電話の声で聞いた。胸が、温かくなった。智也は、私を、誇りに思ってくれている。それだけで、咲には、十分だった。ある日、智也が、照れくさそうに言った。「なあ、咲。お前、最近、綺麗になったな」その言葉に、咲は、顔を赤らめた。「そ、そう?」「ああ。なんていうか、輝いてる」智也は、咲の手を、ぎこちなく握った。咲は、その手を、握り返した。
その夜。智也が、咲に言った。「なあ、咲。俺、今まで、お前のこと、ちゃんと見てなかった。お前がどれだけ頑張ってるか、どれだけすごいか。全然、分かってなかった」咲は、智也の目を見つめた。「でも、お前が翻訳の仕事を始めて、俺、初めて気づいたんだ。お前は、ただの『嫁』じゃない。お前は、お前自身なんだって」その言葉が、咲の心に、深く、深く、染み込んでいった。
「智也……」「俺、これから、もっとお前を大切にする。お前を、一人の人間として、尊重する」智也は、咲を、優しく抱きしめた。咲は、智也の胸の中で、涙を流した。それは、嬉しさの涙だった。その夜、二人は、久しぶりに、夫婦として深く触れ合った。それは、義務でも、妻の役割でもなく、確かな愛情だった。翌朝、咲は、穏やかな気持ちで目覚めた。智也が、隣で眠っている。咲は、そっと智也の顔を見つめた。
(私たち、本当に変われたのね)咲は、自分が翻訳の仕事を始めたことで、夫婦の「関係」が、根本から変わったことを実感していた。「透明な存在」から「対等なパートナー」へ。その変化は、夫婦の性生活にも、良い影響を与えていた。それは、もはや「夫への義務」ではなく、「二人の愛情表現」だった。咲は、幸せだった。
だが、ある日、姑の千代子が、咲に言った。「咲さん。あなた、最近、夜遅くまで起きているそうですね」「はい、翻訳の仕事が忙しくて……」「体を壊しますよ。無理はしないでくださいね」千代子の言葉は、優しかった。でも、その裏に、少しだけ、心配の色があった。咲は、姑が、自分の働きすぎを心配してくれていることに、気づいた。それは、かつての「評価」の目ではなく、本当の「心配」だった。
「お義母様。ありがとうございます。気をつけます」「ええ。でも、咲さん。あなたが頑張っている姿、私、本当に尊敬しています」その言葉が、咲の胸を、温かく満たした。姑との関係も、変わった。もはや、「嫁と姑」という固定された関係ではなく、「二人の女性」としての、対等な関係になりつつあった。咲は、思った。イサム・ノグチの言葉通り、「関係」は、デザインできる。そして、私は、今、自分の人生の「関係」を、一つずつ、デザインし直している。

