凛子は、朝倉のレストランに、通うようになっていた。週に一度が、週に二度になり、やがて週に三度になった。夫が出張の日。夫が遅くまで残業の日。夫が接待で帰りが遅い日。凛子は、あらゆる理由を見つけて、朝倉に会いに行った。朝倉は、いつも、凛子を温かく迎えてくれた。そして、美味しいワインと、心地よい会話を提供してくれた。凛子は、その時間が、唯一の「生きている」実感を得られる場所になっていた。
ある夜、凛子と朝倉は、一線を越えた。閉店後のレストラン。二人だけの空間。ワインが、二人の理性を溶かしていった。「高村さん……」「朝倉さん……」気づいた時には、二人は、抱き合っていた。その夜、凛子は、朝倉と、ホテルの一室にいた。罪悪感と、背徳感と、そして、今まで感じたことのない、激しい充足感。それらが、凛子の心を、激しく揺さぶった。(私は、何をしているの)だが、同時に、思った。(私は、生きている)
それから、凛子は、朝倉に、のめり込んでいった。毎日、彼にメッセージを送り、返信が遅いと不安になった。彼の言葉の一つ一つに、意味を探した。彼が笑ってくれると、世界が輝いて見えた。彼が忙しいと言うと、世界が色を失った。凛子は、自分が朝倉に「依存」していることに、気づいていなかった。いや、気づいていたが、認めたくなかった。だが、ある日、朝倉から、冷たいメッセージが来た。『高村さん。少し、距離を置きませんか。このままでは、お互いに、壊れてしまいます』
その言葉が、凛子の心を、凍りつかせた。凛子は、慌てて、朝倉に電話をかけた。「朝倉さん、どういうこと!? 私、何か悪いことした!?」「高村さん……あなたは、僕に依存しているだけです。それは、愛じゃない」その言葉が、凛子の心を、ナイフで切り裂いた。「違う! 私は、あなたを……」「高村さん。あなたは、自分自身を見つけるべきです。僕という他人に、それを求めないで」電話は、切れた。凛子は、その場に崩れ落ちた。
凛子は、何日も、朝倉に連絡を取ろうとした。だが、朝倉からの返信は、なかった。凛子は、絶望の淵に立っていた。(私は、何をしていたんだろう)夫との関係を修復しようとしていたはずなのに。自分を取り戻そうとしていたはずなのに。結局、私は、また、誰かに依存していただけ。朝倉の言葉が、凛子の心に、重く響いた。「あなたは、自分自身を見つけるべきです」
凛子は、栞のサロンを訪れた。栞は、凛子の様子を見て、何も聞かずに、お茶を淹れてくれた。凛子は、しばらく黙っていたが、やがて、堰を切ったように話し始めた。朝倉との出会い。関係。そして、別れ。栞は、静かに聞いていた。そして、凛子が話し終えた後、栞は、ゆっくりと口を開いた。「凛子さん。あなたは、何を求めていたのですか?」「……分かりません。ただ、朝倉さんといると、生きている実感があって……」
「それは、朝倉さんがあなたを生かしてくれたのではなく、あなた自身が、彼を通して、自分の中の何かを見つけようとしていたのではないですか?」栞の言葉が、凛子の胸に、静かに染み込んでいった。「でも、それは、他人に求めるものではないんです。自分の中に、探すものなんです」凛子は、涙が溢れてきた。「でも……どうやって……」「時間がかかります。でも、凛子さんは、もう、その道を歩き始めています」
栞は、凛子の手を、優しく握った。「今は、痛くて、辛いかもしれない。でも、この痛みは、あなたが『生きている』証拠です。そして、この痛みを乗り越えた時、あなたは、本当の自分に出会えるはずです」凛子は、栞の手を、強く握り返した。涙が、止まらなかった。でも、その涙は、不思議と、温かかった。

