第11章「三つの灯火」

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あの夜、凛子からのメッセージを受け取った時、神崎麗奈は、ベッドの中でスマートフォンを握りしめたまま、動けずにいた。『今夜、私は、初めて、自分の言葉で話しました』その短い一文が、麗奈の胸に、鋭く突き刺さった。凛子さんは、やったのだ。夫に対して、自分の言葉で、自分の想いを伝えた。麗奈の最初の反応は、恐怖だった。夫たちの世界は、私たちが思うより、ずっと狭く、そして固く結びついている。凛子さんの夫が、私の夫に、このことを話さないはずがない。

『高村さんの奥さん、少し、おかしいぞ』と。そして、夫の洋平は、きっと言うだろう。『だから言っただろう。あの人たちと付き合うのはやめろ、と』。自分の、この、かろうじて保っている平穏が、脅かされる。麗奈は、反射的に、スマートフォンを裏返して、テーブルに置いた。関わってはいけない。これは、凛子さんの問題だ。私は、私自身の城を守らなければ。だが。目を閉じると、脳裏に、あのモエレ沼公園の、どこまでも広がる空っぽの空が、蘇ってくる。あの空の下で感じた、胸を締め付けるような、自由への渇望。

凛子さんの言葉。『固定された、固い彫刻そのものだと思っているけれど……』私も、そうなのだろうか。夫の所有物という、美しい彫刻。麗奈は、ゆっくりと、裏返したスマートフォンを、もう一度手に取った。凛子さんの、あの短い一文が、まるで、自分に宛てて書かれた手紙のように見えた。自分の言葉で、話す。それは、いつも誰かの期待に応える言葉を探し、完璧なキャプションを考え、そして、夫の前では当たり障りのない返事しかしてこなかった自分にとって、最も遠い場所にある行為だった。

凛子さんは、その、一番怖いことをしたのだ。たった一人で。その孤独を思うと、麗奈の胸が、ちりちりと痛んだ。麗奈は、震える指で、返信を打ち始めた。『自分の言葉で話すこと。それって、世界で一番、贅沢なことかもしれないわね』その、麗奈さんらしい、少しだけ気取った、でも、紛れもなく彼女自身の言葉。送信ボタンを押した後、麗奈は、自分の胸に手を当てた。心臓が、早く打っている。怖い。でも、この怖さは、生きている証拠のような気がした。

同じ頃、野々宮咲も、凛子からのメッセージを見つめていた。『今夜、私は、初めて、自分の言葉で話しました』咲は、その一文を、何度も、何度も、読み返した。ああ、と咲は思った。凛子さんは、なんて、すごい人なんだろう。あの読書会で、自分の弱さを吐露してしまった自分とは、違う。凛子さんは、戦ったのだ。自分の言葉で、自分の尊厳のために。その光景が、目に浮かぶようだった。きっと、怖かっただろう。きっと、独りだっただろう。

咲は、あの読書会の後の、自分の後悔を思い出していた。凛子さんや麗奈さんに、幻滅されたのではないか、と。だが、今は、違う感情が湧き上がっていた。凛子さんが、あんな風に、自分の言葉で話そうと思えたのは、もしかしたら、ほんの少しだけ、あの日の、私の、あの、みっともない告白が、きっかけになったのかもしれない。そう思った瞬間、咲の胸に、温かい何かが、じんわりと広がった。自分は、無力ではなかった。自分の痛みは、無意味ではなかった。

凛子さんは今、きっと、嵐の後の、一番冷たい風の中に、一人で立っている。咲は、祈るような気持ちで、返信を打ち始めた。気の利いた言葉は、思いつかない。ただ、自分の心が感じたままを、伝えるしかない。『嵐のあと、風は、いちばん冷たいですよね。今夜は、どうか、ご自分を、温かくしてあげてください』送信すると、咲は、スマートフォンの画面を、じっと見つめていた。どうか、この言葉が、凛子さんの心に、小さなカイロのように、届きますように。

翌朝。凛子は、ほとんど眠れないまま、夜を明かした。夫は、いつもより早く家を出て行った。朝食のテーブルで、一度も、目が合わなかった。家の中の空気は、張り詰めて、ガラスのように脆くなっていた。(やはり、間違っていたのかもしれない)自己嫌悪が、冷たい霧のように、心を覆い始める。その時だった。電源を切っていたスマートフォンを、意を決して、起動させた。通知が、二件、入っていた。

咲からの、優しい、労わるような言葉。凛子の目から、涙が、一筋、こぼれ落ちた。そうだ。今、私が感じているのは、この、どうしようもない寒さなのだ。咲さんは、それを、分かってくれた。分かろうと、してくれた。そして、もう一件。神崎麗奈からだった。『自分の言葉で話すこと。それって、世界で一番、贅沢なことかもしれないわね』その、麗奈さんらしい、少しだけ気取った、でも、紛れもなく彼女自身の言葉。その言葉の裏にある、彼女の恐怖と、葛藤と、そして、ほんの少しの勇気を、凛子は、痛いほど感じ取った。

凛子は、ソファの上で、体を起こした。一人じゃなかった。この、広大な、完璧な静寂に満ちた部屋で、自分は、独りではなかった。画面には、三人の、それぞれの場所から放たれた、三つの、小さな灯火のようなメッセージが、静かに並んでいた。それは、まだ、とてもか弱く、小さな光だった。だが、その三つの光は、確かに、互いを照らし合い、この冷たく、暗い夜の中で、一つの、温かい景色を、作り出していた。革命は、まだ始まってもいない。夜明けは、まだ、遠い。だが、凛子は、この夜のことを、きっと、一生忘れないだろうと思った。自分の足で大地に立ち、そして、遠くに、仲間たちの灯火を見つけた、この夜のことを。

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